今年は色々なことが起こる1年間だった。 パンデミックが起こり、父が亡くなり、入籍もした。
事実関係の確認と残った手続きが済むまでほとんど誰にも言っていなかったが、 今年の出来事は年内に整理しておきたいのでしたためる。
国内でも急激にコロナウイルスが流行し始めていた今年の4月、疎遠だった父が急死したらしいという連絡を受けた。 「らしい」というのは、母→祖母→叔父、という伝言だったからだ。
僕と父は、上記のような迂遠な経路で話が伝わってくる程度には疎遠だ。メールアドレスは知っているが、具体的に東京のどこに誰と住んでいるのかは知らない。叔父の連絡先も分からない。しかも具合が悪いとか、死にそうであるとかという話ではなく、一足飛びに死んだかもしれないという話なのだ。
「本当に死んだならすぐに葬式の話が来るだろう。」
母と電話口でそう話したものの手の震えが止まらず、当惑した僕をまだ入籍する前の妻が気付かってくれた。
その後、一向に葬式の連絡はなく2週間が過ぎた。忌引休暇を使いきりGWに入ってもう5月になるだろうという時期に、ようやく叔父と連絡がついて詳しい事情を聞くことができた。
風邪のような症状で休んでいた父は、自宅で亡くなっていたという。 検死とPCR検査も行われ、結果が出るまで1週間程度かかったらしい。 コロナウイルスに感染していたことが分かり、葬儀はせずにもう焼かれていることも聞いた。
自宅療養していた父はどんな気持ちで逝ったのだろうということを考える。
僕は昔、海水浴で溺れかけたことがある。3・4メートルの深さの海底に潜る途中で水を吸ってしまったのだ。一歩間違えれば死ぬかもしれないという意識へ急激に切り替わり、水面まで戻ることを最優先にした。結果、鼻がツンとするくらいでどうということは無かったものの、僕の中では死を意識した瞬間としてよく覚えている。
父も、最初はなんということもなく休んでいたのだと思う。
コロナウイルスの症状は重症化する場合急激に悪化すると言われている。日常と非常事態の境目を越えたときの恐怖と絶望感を想像すると、いかに疎遠だったとはいえ可哀想に思う。
残念ながら、父との親子らしいエピソードはあまり覚えていないし、 父が一体どれほどの関心を家庭に対して持っていたのかは定かではない。 しかし、僕が絶対に父に感謝しなければならないことがある。
おそらくは1998年頃、父はリース切れのMacintosh Centris 650をくれた。 これがきっかけで僕は順調にパソコンオタクとなり、やがてDTPやWeb開発をやるようになったことを想うと、父の先見の明にはありがとうを言いたい。
父のいた会社は知っているので、5ちゃんねるでも調べてみた。割と過疎スレだったが、事件のことは噂になっていた。 この噂を信じるなら、ある宴会をきっかけに感染し、ほかにももう1名が亡くなっていたらしい。 この件についてのプレスリリースは今も出ていない。
その会社のことは非常に『日本企業らしい』社風だと聞いている。
父はそれなりの役職に就いていたので、多くのものを会社に捧げてきたのではないかと邪推する。元はといえば、離婚のきっかけになったのも父が命じられた単身赴任ではなかったのか。
父の死がその会社のせいだったとまでは思わないし、離婚したことが両親の自由意思であるのも勿論である。
でも、家庭の崩壊と死の一端となる原因を作り出した会社に奉仕してきたにもかかわらず、死んでもプレスリリースとして出せない程度の扱いということに対し若干の憤りとやるせなさを感じもした。
父はクルマが好きだった。僕はクルマに興味がなかったが、実際にクルマを買ってみるとかなり好きな方であることを自覚した。 クルマには電装と呼ばれる部品があり、素人でもある程度カスタマイズできるようになっていて、その為の特殊な工具がある。 子供の頃その工具の名前や用途がさっぱり分からなかったが、つい最近自分で電装をいじるときに初めて合点できた。あれは電工ペンチだった。
疎遠だったとはいえ、入籍の報告ついでに趣味の話でもできれば、また新たな父との関係もあったのかもしれない。
しかし、全部終わったことなのだ。
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